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【邦画】『弱虫ペダル』感想レビュー--約7割が自転車を漕いでいるシーンの中で物語を構築する大変さ

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監督:三木康一郎/脚本:板谷里乃、三木康一郎/原作:渡辺航
配給:松竹/上映時間:112分/公開:2020年8月14日
出演:永瀬廉、伊藤健太郎、橋本環奈、坂東龍汰、竜星涼、柳俊太郎、菅原健、井上瑞稀、皆川猿時

 

注意:文中で終盤の展開に触れていますので、未見の方はネタバレにお気を付けください。

 

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晴れて高校に入学したアニメオタクの小野田坂道(永瀬廉)は、念願のアニメ研究会に入ろうとするも、人数が足りないので廃部になったとの掲示を見て、学校の廊下でひとり叫び膝から崩れ落ちる。現実世界で実際に「膝から崩れ落ちる」人はいないわけで、フィクションならではの誇張なのだが、最近の邦画はこういう違和感なく劇中でのリアリティを設定する所作が本当に巧みになっている。

約40キロ先にある秋葉原に週一でママチャリを走らせている小野田は、自分でも気づかぬうちに強靭な足腰を手に入れていた。中学ではロードレースのエースだった今泉俊輔(伊藤健太郎)は、急勾配の坂道でもペースを落とさない小野田を見て驚き、レースを挑む。相手がママチャリにも関わらずレースで接戦となった今泉は「自転車部で待ってる」と言い残す。

とまあ、簡単に言えば「潜在型の天才が自分の能力を開花させる話」ですね。それだけだと嫌味になるので「自分が必要とされている世界に気づく話」の比重を大きくしているけれど。さすがにこれでは、まるで竜王の血統を持つ勇者が主人公のゲームのような、結論が決まり切っている白けた物語になりそうである。

そのため本作は、小野田の周囲の人々にスポットが当たった時に本当の輝きが出る。小野田はロードレースにおいてはあまりに型破りで、常識の範疇外にいる「異質な存在」である。そんな「異質な存在」に触れることで、周囲の人々は既存の価値観が変化していく。そんな気づきを与えていく存在、つまり小野田は『ちはやふる』の千早であり、『のぼる小寺さん』の小寺さんなのだ。

「異質の存在」から気づきを得る人々については、まず小野田の同級生2人をメインと決めてスポットを当て、他のキャラクターは多少類型に留めて手際良くポンポンと変化を見せる。2時間の尺に収めるための効果的なバランスだ。あくまで小野田が「異質な存在」であるアピールが優先だが、他の登場人物たちにもそれぞれの立場に見合った小さな見せ場が用意され、メリハリのついた整理がなされている。三木康一郎監督は『"隠れビッチ"やってました』で多視点の演出を効果的に用いており、本作はそこまで技巧を駆使していないものの、どうも複数の人物を手際よくまとめる才があるようだ。

で、本当に驚いたんだけど、この映画、約7割が自転車を漕いでいるシーンなのだ。萌えアニメだと思っていたら約7割が戦車で撃ち合っている映画だったかのような衝撃。なので、小野田を「異質な存在」と示して、周囲の人々が小野田から気づきを得ていく、その一連のほとんどが自転車を漕ぎながら展開される。物語の舞台としては、あまりに制約が多い。

まあそれでも、小野田が「異質な存在」なのは、自転車を漕いでいる姿だけで伝えられる。素人目でも明らかに型破りだと解るフォームで力任せに自転車を漕いでいる小野田(というか永瀬廉)の身体性を見せつけることによって、「異質な存在」の説得力が増す。たしかにこの場合、技巧的な編集は排除してそのままを見せたほうが効果がある。

難しいのは、ロードレースの試合内容だけで物語を構築することである。どんな競技であれ、試合内容を物語として創作しても、実際の試合における「現実であるからこその魅力」を超えるのは難しい。であれば、フィクションだからできる「現実にはあり得ない展開」で勝負すべきだ。だがこれは本当に難しい。ありえないことが起こっても違和感がない下地が事前に必要なのだから。

ここで冒頭の「膝から崩れ落ちる」のような、劇中におけるリアリティの設定が効いてくる。「この世界では、ここまでのフィクションはアリなんですよ」という丁寧な積み重ねがあるからこそ、ラストの逆転劇にも納得ができる。まあ、その積み重ねのほとんどは小野田の超人的な身体性から発生しており、たとえばありえないペダルの回転数を指示されてこなすなど、とにかく小野田を「異質な存在」と猛アピールしておかないと、あのベタかつ非現実な展開に説得力が生まれない。

特にレースシーンでは、三木監督お得意の凝ったカメラワークは制約が多くて難しいため、非現実な物語の説得力を役者の身体性に委ねたのは最適解である。時おり挟まる上目遣いで大口を開けた顔のアップも、変顔とは認識されず、きちんと鬼気迫る表情として伝わり、映画を盛り上げていたし。これもまた役者の身体性だ。

物語を締めくくるのが小野田ではなく、小野田から気づきを得た人物なのは極めて正しい。あと、余計な恋愛要素やグダグダした後日談を排除したのも良かった。

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