ヤガンEX

映画とか漫画とか似顔絵とか

【邦画】『ぐらんぶる』感想レビュー--長期連載しているギャグ漫画を実写映画化したときに発生する問題点と、その解決法とは

f:id:yagan:20200808180216p:plain
監督:英勉/脚本:英勉、宇田学/原作:井上堅二、吉岡公威
配給:ワーナー・ブラザース/上映時間:107分/公開:2020年8月7日
出演:竜星涼、犬飼貴丈、与田祐希、朝比奈彩、小倉優香、石川恋、高嶋政宏、矢本悠馬、森永悠希

 

注意:文中で結末に触れていますので、未見の方は自己責任でお願いします。

 

スポンサードリンク
 

 

ギャグ漫画を実写映画化するときに、必ずぶち当たる問題がある。ギャグとはいえ、長く連載を続けていると、ちょっと感動できるようなエピソードも混じってくる。特に印象的だと神回とか呼ばれて、ファンの間では語り草になったり。で、そんな大切なエピソードならと、実写映画にも取り入れるわけだが、これが大惨事になってしまいがちなのだ。

連載漫画の場合は、くだらない日常エピソードがいくつも折り重なるうちに、キャラクターの内面が徐々に深みが生まれる。そうして長い時間をかけてキャラクターや関係性が形成されたところで、満を持して大きなエピソード(告白とか)が放り込まれ、神回となる。漫画ファンは、連載と同じだけの期間をかけてキャラクターたちに感情移入しており、だからこそ感動を呼び起こすのだ。

そんな長期連載ゆえに誕生した神回を、2時間の映画の尺に収めて盛り込もうとすれば、無理が生じて当然である。それで破綻したのが実写版『かぐや様は告らせたい』であった(『かぐや様』はヤンジャン連載のギャグ漫画ですからね)。では、本作『ぐらんぶる』は、この問題にどう乗り切ったのか。先に結論を言ってしまえば、原作の神回には手を出さない、であったが。まあ、それが一番の良策だろう。

離れ小島にある珍しい大学に通うことになった北原伊織(竜星涼)は、小型漁船に乗せてもらって島に上陸する。居候先である叔父(高嶋政宏という配役だけで予想つく通り、もちろん変態)の経営するダイビングショップに到着すると、スキューバのスーツを着た美女(与田祐希)に出会う。と、そこで意識が飛び、気が付くと大学のキャンパス内で全裸で倒れていた。身体に書かれた指示通りに建物の裏に行くと自分のパンツを発見する。パンイチで慌ててショップに戻ると、またもや同じ美女を見たところで意識を失い、まったく同じ場所で全裸で倒れていた。

本人はタイムリープを疑っているが、全裸で目を覚ますごとに一日づつ進んでいる(だとしたらギャラリーや警備員の反応に差をつけてほしいところだが)。そして、同じ境遇の今村耕平(犬飼貴丈)とともに、何日も同じ展開を繰り返す中で、徐々に真相に辿り着いていく。実はショップに帰るたびにダイビングサークルの先輩に酒を飲まされて記憶を無くしたうえで、全裸で大学内に放り出されていたのだ。

くだらないんだけど、この序盤の一連はミステリ風味でもありけっこう楽しかった。で、あとで原作を読んで本当に驚いたのだが、これ完全に映画オリジナルのエピソードなのね。本作は、原作の「人間関係がきちんと形成されたあとに発生する感動系のエピソード」になるべく手を出していない。だがそれだと単発の日常回しか残らないので、代わりにオリジナルのエピソードをふんだんに創作しては盛り込んでいる。

ギャグ漫画を実写映画化した際のフォーマットとしては、何かひとつの大きな物語の軸があって、そこに絡めた単発のエピソードをいくつも付随させていくのがベターだ。ここでオチを言ってしまうが、本作の場合は、伊織と耕平がダイビングサークルから逃げ出したい、という映画オリジナルの軸がまずある。それゆえ海を渡って島から脱出するために、彼らがダイビングについてきちんと学ぶ単発のエピソードがいくつも付随する。これが本作の基本的な構造だ。

※ なお、この構図にするために、大学を離れ小島に設定したところまで映画オリジナルである。この大胆さは見習いたい。

あとは文化祭のミスコン回などを中盤に用意して、物語が単調にならないように起伏をつけている。ちょっとした「良い話」はサブキャラの吉原愛菜(石川恋)に任せているのを含めて、プロットは非常に優秀である。メインのキャラクターの感情や関係性に変化を出させるエピソードを入れなかったのは正解だろう。これは青春映画ではないのだし。

実はくだらないギャグだらけの本作において、ダイビング絡みについては、非常に誠実に取り上げている(もちろんオチはつけているのだけれど)。この辺りは原作の意図を踏襲しているからで、エピソードをそのまま拝借しているところも多い。どうにもやり口が優等生なのが個人的には物足りないが、安心して観られるエンタメを目指すのなら最善の策である。本来は当たり前なんだけど、ダイビングをバカにしていないだけでも昨今の邦画では好印象だ。

そんなわけで、ギャグ漫画の実写映画化としては申し分ないと結論付けたいところなのだけれど、どうしても看過できない件がある。これもまたギャグ漫画の実写映画化につきまとう問題なのだが、単発のエピソードのオチがついたところで物語がぶった切られて、シーンが変わると全てが無かったことにされているように感じる箇所が何回かあった。意外と原作は前回のオチをそのまま次の回に持ち越して話を転がすパターンが多いのだけれど。

具体的には、たとえば矢本悠馬と森永遥希の『ちはやふる』コンビが登場するエピソード。千沙(あ、伊織が冒頭で出会った謎の女で、一緒に暮らしている従妹ね)から大衆の面前で「私の彼氏です」と嘘を言われたため、伊織は大学内の男たちから殺意を向けられている。そうした経緯から『ちはやふる』コンビが伊織の家に上がり込む。

居候先であるショップには複数の女が出入りしており、彼女らが姿を現すたびに大袈裟に驚く森永遥希と無表情で現実逃避する矢本悠馬、というコントラストが笑いを産む。コメディにおける矢本悠馬の最大の武器は無表情フェイスなので、とにかく変顔で大声を出させれば面白いとか思い込んでる福田雄一は見習うように。で、最後には千沙が現れて同棲と勘違いされる発言をしてしまい矢本悠馬は発狂する。

とまあ、単発のエピソードとしてはベタな笑いなんだけど、『ちはやふる』コンビが出てくるのはここだけなのね。矢本悠馬、発狂したまま放りっぱなし。こんな感じの「オチがついたからハイおしまい」てのが、本作では何度かあって悪目立ちしていた。あと、その前の千沙が「伊織は私の彼氏です」と嘘をつく件は、映画を観ているときは意味が解らなかった。原作を読んで理解したんだけど、これは自分が重要なセリフか何かに気付かなかったからなのか?

もうひとつ、ここまで一切触れなかったけれど、「同性愛者と勘違いされる」それ自体がギャグだというのは、さすがに時代にそぐわない。まあ、これって昔から定番のギャグとして存在し続けていたから、一朝一夕には排除できないのだろうけど。これが性別関係なく「まったく興味ない人と付き合っていると勘違いされる」というギャグと解釈すれば、とか考え出したりすると、またややこしくなるわけだし。

とりあえず結論としては、細かく見ていくと粗になってしまう点が目立ったのは残念だけど、話の骨格は本当に巧くできていたし、全体的にはベタな笑いがきちんと機能していて楽しめるエンタメ作品になっていたかと。このレベルの作品が映画業界の中核を支えてくれるのが理想的かな。

-----

 

スポンサードリンク