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【邦画】『COMPLY+-ANCE』感想レビュー--齊藤工監督の社会に対する反骨精神が空回りしているばかり

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総監督:齊藤工/監督:岩切一空、飯塚貴士、齊藤工
配給:SPOTTED PRODUCTIONS/上映時間:79分/公開:2020年2月21日
出演:秋山ゆずき、平子祐希、斎藤工、大水洋介、古家翔吾、華村あすか、中井友望、川島直人、山元駿、半田美樹

 

注意:文中で直接的に結末には触れていませんが、念のためネタバレにご注意ください。ネタバレがどうこうという作品でもないですが。

 

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37点
俳優の斎藤工(監督での名義は齊藤工)が企画し、総監督も務めた作品。公式サイトのイントロダクションによると、今の日本では≪日々、忖度やコンプライアンスがニュースのみならず日常会話においても語られ、明確な基準もないまま"自主規制"ばかりが増していく≫とあり、そうした表現限界に挑戦したとある。一介の俳優が反骨の社会的主張をすることを嫌悪する風潮は今の日本にはあるが、それ自体は何ら悪いことではなく、どんどんやってほしい。だが、そうしてできあがった作品が社会への問題提起とされるならば、まずは一定以上のクオリティがなくてはならないわけだが、それがなあ…。

映画は別々の監督による3作のオムニバス形式で、コンプライアンス(本来は法令遵守という意味だが、表現規制とごっちゃになっているような)をテーマとした短編が並ぶ。合間に狐火(ラッパー)の曲とかChim↑Pomの映像とかもあるが、どの作品も総じて、明確すぎるお題のせいで窮屈になってしまっていた気がする。

1作目は岩切一空監督。『花に嵐』『聖なるもの』で一定の評価を出している通り、3作の中では唯一、一応の映画らしさがあった。詳細は説明されないので憶測を交えたあらすじだが、無名のアイドル数人を集めて手作り感満載の自主製作映画を撮影したものの、出演者のひとりが「撮影状況を親に説明したら意味が解らないと反対された」ので上映をやめてほしいと言い出している。その話し合いの映像と撮影メイキングの映像が交互に流れることで、それなりの緊張感は発生している。最後の意外なオチによって映画作品としての体裁は整えているが、やはり突きつけられたお題による窮屈さから脱するまでに至っておらず、岩切監督の過去作を知る者からすると物足りなさが残る。

2作目は飯塚貴士監督による人形劇。事件現場に居合わせた無関係な人を撃ち殺したりするアウトロー(というレベルではないが)な刑事が、タイムスリップして自分の行いを悔い改める話。道徳教材としても陳腐すぎるうえに物語も素人レベルで、人形劇のチープさも相まって虚しさが加速されている。稚拙さ自体がギャグなのだと思い込もうとしたが、それだと福田雄一監督も許さないといけなくなるので、申し訳ないが全否定するしかない。

そして問題の齊藤工監督による3作目。喫茶店の席で新進のアイドル女優にインタビューする動画を撮影するが、スタッフがコンプライアンスを気にし過ぎてめちゃくちゃになっていく話。社会的メッセージを伝える手法が安直すぎるところから気になるが、実際は更に酷い。インタビューが進むうちにスタッフの自主規制が過激になっていき、壁にかかったフェルメールの絵にもモザイクをかけ、好きな動物を聞かれてウサギと答えれば「性欲が強いからNG」とサイに変えさせるとか、そんなのが延々と繰り返される。まず、コントとしても面白くない。これ、アルコ&ピース・平子やラバーガール・大水といったプロの芸人が出演しているのだが、現場で口出しできる雰囲気ではなかったんだろうか。

インタビューを撮影しているカメラ映像の中でモザイクが増えていくのは百歩譲って理解するとして、そのインタビュー状況を映しているこの映画の画面にもモザイクが入る意図は何なのか。映画自体もコンプライアンスの縛りから抜け出せないという入れ子構造のつもりだとしても、そもそも自主制作に近い小規模映画では、表現規制を気にする必要なんてないのが実情だ。『解放区』のように自治体が助成金を出していたりすれば別だが、過激な表現をしている映画なんて山のように公開されているし、それ自体は当たり前すぎて売りにすらならない。

地上波のTV番組としてやるならともかく、小規模映画という絶対的な安全圏でコンプライアンスがどうとか訴えても、それは過激な挑戦でも何でもないのだ。単に「反骨精神を振りかざして現代社会に意見している俺かっけえ」という自意識過剰なマスターベーションでしかない。それでも(岩切監督の過去作のように)肥大した自意識をそのままカメラに収めてくれればいいのだが、出来の悪いコント仕立てにすることで虚構の鎧を身に纏い、自己を守っているのが情けない。

齊藤工の映画監督としての手腕は『blank13』で片鱗を見せていたはずだが、本作によってその時の貯金は確実に底をついた。『MANRIKI』の大言壮語な熱量に追いつけていない酷さも、永野ではなく齊藤工に原因があったのだと判明した。本作もそうだが、仲の良い芸人に映画の責任を押し付けて、結果的に彼らの人生を潰しかねない事態になっていることに気付いているのだろうか。

恐ろしいのは、こうした映画の質に対する批判を、齊藤工監督が「問題提起が正しいから抵抗勢力が現れているのだ。我々は、そういうやつらに断固として立ち向かわないといけない」と捉えてしまうかもしれないことである。反骨の正義漢気取りにありがちな勘違いだが、そうならないことを祈るばかりである。齊藤工の抱えるナルシシズムを正しく作品に転換できるプロデューサーを求む。

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