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【邦画】『高津川』感想レビュー--ご当地映画の極北を目指したら前衛芸術みたいなことになっていた

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監督&脚本:錦織良成
配給:ギグリーボックス/上映時間:113分/公開:未定
出演:甲本雅裕、戸田菜穂、大野いと、田口浩正、高橋長英、奈良岡朋子、緒形幹太、春木みさよ、藤巻るも、佐野和真、友利恵、石川雷蔵、岡田浩暉、浜田晃

 

注意:文中で物語の結末に触れていますので、ネタバレにご注意ください。ネタバレしたところで何かがマイナスになる作品ではありませんが。

 

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日本において映画の公開日とは、一般的には東京の映画館で通常上映が開始された日を指す。つまり、東京以外の映画館でいくら上映されようと、東京で上映されなければ劇場公開映画とは呼称されない。そのため、今回取り上げる『高津川』も2019年12月の時点で劇場公開映画ではないのだが、すでに中国地方の多くの映画館で1ヵ月前から上映しているので、今回は取り上げることにした。今後も、このパターンが増えそうな気がするけど。旅費がかさむなあ。

高津川とは、島根県に流れる清流で、一級河川なのにダムがひとつも無いので大雨でも水が濁らないらしい。その川周辺が舞台の本作『高津川』を観るためにボクが訪れたのは、島根県松江市のイオンモールの中にある「松江東宝5」という映画館。1日1回上映で土曜日の昼間だからかもしれないが、年配の方を中心に40名以上の客の入りであった。すでに島根県では公開から1ヵ月経っているのに、この入りはすごい。

島根県は映画館不毛の地で、松江市と出雲市にシネコンがひとつづつあるだけである。乱暴に説明すると、島根県は東西に細長い形であり、映画館のある松江市や出雲市は東側、映画の舞台である高津川は西側に位置していて、相当離れている。映画館のある都市で、高津川周辺から最も近いのは、山口県萩市だ。距離的にはとても地元とは言えない松江市で、これだけ客が入っているのだから、まあ驚異ではある。

さて、この作品、ご当地映画の極北かもしれない。どういうことかと言うと、たとえば、全編に渡って役者の顔のアップが一切ない。ほとんどがロングショットで、たまにバストアップが挟まる程度。そして屋外では必ず、高津川の水面や周囲の自然が奇麗に収まる画ばかり。役者よりも風景が優先されているのだ。屋内のシーンでも、わざわざ後ろの壁に名産品のポスターが貼ってあったりする。

風光明媚な自然の風景を魅力的に見せるのは、ご当地映画の使命のひとつであるが、そのために役者を蔑ろにするとは。自然豊かな高津川をアピールするために、映画の体裁さえも排除しているのである。つまりこれは、映画である前に、ご当地映画なのだ。この、ご当地映画に対するストイックさ、単なる「お世話になった地元の方々への還元」では済まされない異様な熱量を感じる。ちなみに監督は出身の島根県を始め全国各地でご当地映画を撮り続けている錦織良成。一般的に最も有名な作品は『たたら侍』か。

ストーリーだが、これがまた、展開らしきものはあるが、筋がない。なので、説明のしようがない。牧場を経営する斉藤学(甲本雅裕)は、地元で代々継がれる神楽で次に舞手を踏む息子の竜也(石川雷蔵)が稽古をサボっているので気が気ではない、という導入は、一応ある。こういう設定なら、父親は職人気質で人付き合いが苦手な不器用な人物かと思いきや、割と人当たりの良い常識人である。息子だって反抗期で楯突いているわけでもなく、姉には「神楽をやりたい」と言ってしまうような"良い子"なのである。

他の登場人物たちを含めて、高津川周辺の住人たちは、悪人ではないどころか、たいして欠点すら持たないのだ。全ての住人は、地元を愛する常識的な善人ばかり。これもまた、素晴らしい土地には素晴らしい人しかいないのだというご当地映画ゆえのアピールかもしれないが、こんな真っ当な人たちばかりでは、物語は作れるはずがない。またしても、映画よりもご当地映画が優先されている。

象徴的なエピソードを紹介しよう。竜也が神楽の稽古に間に合わず、学が「やる気がないなら来るな」と言う(その前の時点で稽古に参加しているので、かなり唐突なシーン)。その夜、学が友人の寿司屋で呑んでいると、その息子から「竜也は川に溺れた子供を助けていたので稽古に間に合わなかった」とセリフによって聞かされる。翌朝、学は竜也に「なんで言わなかったんだ」と話しかける。

これ、流れだけ見れば、よくある親子のエピソードと思われるかもしれない。でもこの3つのシーン、間に何か挟まることなく、連続しているのだ。3つ併せて、賞味10分程度。1つ目と2つ目のシーンの間にあるはずの「学が竜也のことを誤解して険悪になる状態」は映されない。だって、高津川周辺の住人に、息子を誤解するような人はいるわけないから。そして、「親が変に理解あるから出ていくんだよ。後を継げって強く言えば、みんな残るよ」って、息子のほうが言い出したりする。もはやギャグみたいな"地元愛の強い良い子"だと示されるだけなので、クライマックスである神楽の舞手を踏む場面も、そりゃそうだよなとしか思えない。このエピソードが、登場人物の成長なりなんなりを促しているわけではないのだ。

後半になって、東京に出て弁護士になった学の同級生(田口浩正)が高津川上流のリゾート開発(急に、こんな話が出てきた)について、無自覚に嫌味な感じで肯定的な発言をしたりと、やっと物語を転がしてくれそうなキャラクターが登場する。だがこれもすぐに、痴呆になって自分のことを認識できない父親と会って、すぐに高津川バンザーイとなる。これもここだけ抜き出せば物語めいているかもしれないが、肝心なのは、このエピソードもやはり、他のどことも繋がっていないのだ。展開はあっても筋がなく、常に映画になることを拒絶している。

あと、これまた終盤になって急に出てきた「廃校になる小学校の最後の運動会に卒業生を呼ぶ」という企画も、やはり映画的な物語ではない。最終的に飛行機やバスで大勢が駆けつけるのだが、そうなるに至る過程は一切示されない。神楽の件も同じなのだが、起承転結の起と結しかない。中間の承と転は「高津川が素晴らしいから当然こうなるでしょ」というただ一点に全て委ねている。この潔さ、ご当地映画の鑑だ。

※ ついでに言うと、この小学校は全校生徒5人とかで増える予定も無いから廃校になるのだが、川遊びしていた集団などそれまでスクリーンに映っていたたくさんの子供たちは全て別の学区なのだろうか?

ご当地映画は、ある意味で「ドグマ95」(スウェーデンで起こった映画運動)に似ている。「風光明媚な自然を映さなくてはいけない」とか、「住人は常識のある善人に限る」とか、そういうドグマに縛られることで、現在の映画の価値観を破壊しようとしているのかもしれない。映画『高津川』は、そんなドグマを過剰に守っているがために変なことになっていて、その意味で注目すべき作品ではある。もちろん、かつての「ドグマ95」の諸作品と同様に、ひどく退屈なものになってしまっているのではあるが、前衛芸術なのだから仕方ない。

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