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『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』感想レビュー--妊活の体感時間を観客に疑似体験させることで感動を引き起こす、意外な良作

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監督&脚本:細川徹/原作:ヒキタクニオ
配給:東急レクリエーション/上映時間:104分/公開:2019年10月4日
出演:松重豊、北川景子、山中崇、濱田岳、伊東四朗、皆川猿時、河野安郎、原田千枝子

 

注意:文中でおおまかなストーリーに触れています。ネタバレすることで面白さが半減するタイプの作品ではありませんが、一応はご注意ください。

 

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72点
2019年の10月第1週に公開された『ジョーカー』は、たちまち大旋風を巻き起こし、映画クラスタの話題は『ジョーカー』一色となった。その一方で『ジョン・ウィック:パラベラム』『蜜蜂と遠雷』『HiGH&LOW THE WORST』といった評価の高い作品や強固なファンがいる作品も、こちらも忘れないでくれとばかりに、啓蒙活動を行う人が多数現れた。ボクの場合は、いつもの通り話題作は他に任せるスタンスにより『ダウト~嘘つきオトコは誰?~』という謎の作品をチェックしに行った。予想していたほど悪くなかった。

あるひとつの作品が話題をかっさらうことは珍しいことではない。また、シネコンで何度も予告がかかるような規模の作品ならば、超話題作と公開日が同日に重なった場合でも、評価の良し悪しはともかく無視されることは滅多にない。なので、誰かが観に行って何かしら言うはずだから自分はパスするかと決めていた作品が、完全無視されていることに驚いたのである。口コミが見当たらない現状のままでは、もはや存在すら無かったことにされかねない。それはよろしくない事態だと、台風が近づく金曜日に丸の内TOEIまで足を運んだのだった。(まあ、白状すると閉館間近の有楽町スバル座に行ったついでだったんだけど)

さて、そんな絶賛完全無視され中の映画『ヒキタさん! ご懐妊ですよ』は、意外にも順当な良作であった。映画館で泣いたのは今年初めてかもしれない。もちろん泣ける映画イコール良い映画であるわけではないのだが、デリケートな話題をテーマにしながら、ここまで情緒を揺さぶる王道の感動話を創り上げた手腕は、誰にでもあるものではない。自分が妊活に対して門外漢なために純粋に知識を得られた点も満足度を上げた理由のひとつだが、それより何より一見すると特異な状況設定のような「年の差夫婦の妊活」が、実は普遍的なものであり自分も無関係ではないことに気づかされたことが大きい。

年の差夫婦のヒキタさん(松重豊)とサチ(北川景子)は、仲睦まじく暮らしていたが、子供が欲しくなったサチの希望により妊活を始めることになる。まずは排卵日を特定して夫婦生活を行う「タイミング法」から始めるが、1年経っても子供ができる気配がない。本当にまったく知識が無いもので、ダイジェストとカレンダーをめくるイメージ映像によって速攻で1年経っていることに驚いたりしていた。この後も、子供を産むための行動しかしていないのに、年単位で時間がどんどんと進んでいく。体感時間の操作に長けた映画というジャンルの特性によってヒキタさん夫妻の送る年月のスパンが観客にも疑似体験させられることで、妊活におけるゴールの見えない途方の無さが(少しだけだが)身をもって実感させられる。

「タイミング法」の成果が出なかったために、ヒキタさんは精子の検査を受けることになる。容器に入れた自分の精子を持って商店街を歩く姿や、産婦人科におじさんひとりで入る勇気が持てず躊躇する姿などは、「妊活あるある」のようなコメディとして面白い。だが同時に、もしかしたら自分も同じ経験をするかもしれないと考えると、身が引き締まるのだが。検査の結果、精子の運動量が20%だと知らされ、解りやすく落ち込むヒキタさん。精子が動いていないだけなのだが、男としての尊厳まで否定されるような気持ちなのだろう。

男性のほうに問題があることが解ったため、元気のいい精子を選別する「スイムアップ法」や「人工授精」へと、妊活はステップアップ(この表現でいいのか?)していく。映画中でも妊活というか不妊治療の具体的な内容をきちんと説明してくれて勉強になる。そしてこの辺りから如実になってくるのだが、原因は男性だとはっきり判明しているのに、苦労がかかるのは常に母体となる女性の側なのである。この圧倒的な男女の不平等な形態のどうしようもなさがダイレクトにのしかかり、何もなす術のないヒキタさんは苦悩する。社会システム上の男女平等主義ではどうにもならない、身体性で決定づけられた男女の不平等。なかなかキツい。

ヒキタさんにできることは、大好きな酒やサウナを控えて運動することで、精子の運動量を少しでも高めることくらい。壁にザクロの写真を貼るなど、オカルトじみたことにまで手を出してしまう。でもこれ、状況からして、まったく責められないんだよね。こういった行動が自己満足であることは、作家であるヒキタさんは重々承知の上であると予想されるがゆえに、余計に何もできないことの虚しさが伝わってくる。インチキ療法で金を巻き上げる人とか出てこなくて、本当に良かった。

後半は、妊活による一喜一憂をヒキタさん夫妻とともに体感することで、子供を持とうとする者の感動を疑似体験することになる。ここはやはり、何年もかかって取り組んでいる妊活の体感時間を観客も共有していることが大きい。もちろんこれは映画なので、物語の流れはある程度の予測ができる。ここでこうなら、次はああなるだろうなって考えてしまうのは物語に多く触れている者の悪い癖だ。だがそれでも、ヒキタさん夫妻に共感して喜んだり泣いたりしてしまうのは、ここで起きている出来事と同じことが、今まさに現実でも起きていることを知ったからだろう。パンフレットによると、5.5組のうち1組の夫婦は不妊治療を受けているという。道を歩いていれば、不妊治療中の人とは、いくらでもすれ違うくらいは存在している。

少子高齢化などの社会問題への提起にまで踏み込んでいないのは、物語をややこしくしないがために仕方ないことである。おそらく妊活において最も課題となる費用の面は、ヒキタさんが2LDKのマンションに住んでいてクラゲも買えるほど売れっ子の作家だということで問題なしとしている(安アパートみたいな玄関ドアは気になったが)。「顕微授精」の費用40万円に躊躇する場面はあるが、そこまで切羽詰まっている様子でもないし、これは別件の話に繋がっている。WEB制作会社のサチが仕事をどうしているのかいまいち不明だが、休職しても経済的には問題なさそうなので、この辺に関しては実際の妊活経験者の中には「現実離れしている」と不満を持つ人がいるかもしれない。

※ あと、妊活や体外受精に不信感を持つステレオタイプのキャラクターが登場するが、ああいう時代錯誤な考えの人が今でもたくさんいるってことは、昨今のSNS案件で嫌というほど解ったことである。

ともかく、まったく話題になっていないのが勿体ないというか、日本映画の業界的に損失じゃないかと思ってしまう程度には良作なので、ぜひ観てください。強いて不満を言えば、パンフレットがめちゃくちゃ読みにくいレイアウトってことくらいです。

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原作エッセイ

ヒキタさん! ご懐妊ですよ (光文社文庫)

ヒキタさん! ご懐妊ですよ (光文社文庫)

 

 

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