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【邦画】『洗骨』ネタバレ感想レビュー--ガレッジセールのゴリが新たな日本映画を担う存在となったことに驚いている

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監督&脚本:照屋年之

配給:ファントム・フィルム/上映時間:111分/公開:2019年2月9日
出演:奥田瑛二、筒井道隆、新城剛、水崎綾女、大島蓉子、坂本あきら、山城智二、前原エリ、内間敢大、外間心絢、城間祐司、普久原明、福田加奈子、古謝美佐子、鈴木Q太郎、筒井真理子

 

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71点
監督の照屋年之とは、お笑いコンビ・ガレッジセールのゴリの本名。ボクは笑芸には詳しいほうだという自覚はあるものの、ガレッジセールがどういう芸人なのか説明できるほど詳しくない。もうずいぶんとTVでは第一線から離れているせいもあるが、ブレイク時(「ゴリエ」で紅白とか出ていた頃)もそんなに注視していなかったのもある。沖縄でやんちゃしていたときの感覚をそのまま芸風に持ち込んで、それが当時の吉本興業の体質と合致して巧くいっていた、という感じだっただろうか。よく覚えていないが。

そんなガレッジセール・ゴリだが、2009年に長編映画『南の島のフリムン』を監督している。これまた未見なので何も言えないが、当時は酷評されていて、興行成績も散々だったという。吉本興業が沖縄国際映画祭を開催するにあたって、とりあえず適当な芸人に監督をやらせてみた末の大惨事というわけか。あんまり想像で書き並べるのもどうかと思うが、外野による認識としては、こんな感じ。

それから10年間、ゴリが短編映画を何本も撮り続けていたのは知らなかった。パンフレットの監督インタビューによると、映画を作る喜びが忘れられず、自主制作も含めて細々と制作していたという。その努力が実を結び、もう一度チャンスを与えられて完成させたのが本作『洗骨』である。まあ、これが意外なほどの良作で、ビックリした。

舞台は沖縄の粟国島。この島では死んだ人は火葬ではなく風葬して、4年後に遺体を取り出して家族で骨を洗う「洗骨」という風習が残っている。新城家の母・恵美子(筒井真理子)の洗骨のために、ひとり暮らしていた父・信綱(奥田瑛二)の元に、娘・優子(水崎綾女)と息子・剛(筒井道隆)が帰省してくる。しかし優子は、すでに臨月の状態であった。

映画は4年前の恵美子の葬儀のシーンから始まるのだが、最初に登場するのは葬儀で余った食べ物を執拗に貰おうとする近所のおじさんである。重くなる題材だと身構えているこちらとしては、いきなりのギャグテイストに一瞬驚く。ここで大島蓉子演じる親戚(信綱の姉)のおばさんが声を張り上げることで、笑いと共に空気が締まる。恵美子の夫も子供たちも精神的にグラグラとしている中で、このおばさんが支柱となって劇中では家族を、映画としては物語を支えている。

この映画、こういうコメディ的な箇所が何度もある。物語の邪魔にならない程度で、中くらいの笑いをポンポンと投げ込んでくる。このさじ加減はさすがだし、笑いの内容もベタ過ぎず尖り過ぎずの、いい塩梅となっている。意外なことだが、芸人監督の作品では、こういうのは珍しい。芸人監督の場合は、別のフィールドで勝負しているんだからと一切笑いを取り除くか、笑いを入れる場合は「こんな笑いを考える俺すげぇ」みたいな自意識が出てきて変にこだわってしまうことが多いから。本作のような「物語の邪魔をしない、添え物としての笑い」って、本職だと照れがあってできないものなのに。自分が芸人であるということに重きを置いていないのかもしれない。ここは監督が生来持っている素質でしょう。

人の死を扱う以上はどうしたって重くなってしまう物語に、一定の笑いを組み込むことで、辛気臭さが無くなっている。さらには、笑いによって適度にテンポが生まれるので、映画が間延びせずに済んでいる。これは本職の監督でもなかなかできない力量である。大島蓉子とともに、中盤から登場する鈴木Q太郎が、主に笑いを任されている。鈴木Q太郎は、優子のお腹の中にいる子供の父親役。余所者ならではの距離感の無さを発揮し、内向きな家族の中に入りこんで風穴を開ける役割を担っている。最初は邪険に扱われていたQ太郎が次第に家族の中に溶け込んでいき、最終的には骨を洗うところまでいく過程は、なかなかスマートであった。

話としては、死者と改めて向き合うことで家族の再生が行われるというベタなものである。そこに粟国島の奇抜な風習が大きく関わることで、独特の深みが加わる。さらには大島蓉子と鈴木Q太郎のタイプの違う2人が笑いを誘い、エンタテイメントとしての側面も保たれている。人骨を洗うなんていう一歩間違えたらグロテスクになりかねない場面を、家族の再生という物語上の帰結(もうひと波乱あるけど)として丹念に見せることに成功している。

ここまで各方向に配慮して構成できる監督なんて、今の日本では多くない。「撮りたいから」という純粋な理由で短編を撮り続けてきた経験は、大きな財産となっていたことが、本作によって判明した。まったく予想外のところから、新たな日本映画を担う存在が登場してきたことに、非常に驚いている。

 

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