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【邦画】『累 -かさね-』ネタバレ感想レビュー--土屋太鳳というモンスターを目覚めさせるための儀式と、利用される芳根京子

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監督:佐藤祐市/脚本:黒岩勉/原作:松浦だるま
配給:東宝/公開:2018年9月7日/上映時間:112分
出演:土屋太鳳、芳根京子、横山裕、筒井真理子、生田智子、村井國夫、檀れい、浅野忠信

 

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67点
全ては土屋太鳳というモンスターを目覚めさせ、民を震え上がらせようとする目的のみによって創られた作品である。芳根京子ですら、土屋太鳳を立てるための存在にすぎない。そのため、映画にとって大切な様々なことも、土屋太鳳の邪魔になるからと排している。冒頭はスピーディーにこなし、掴みであるはずの「一番最初に顔が入れ替わる瞬間」ですら、映像としての強烈さは追及されず、あっさりと済ませられる。

累(1) (イブニングコミックス)

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この話、意外なことにミステリ要素が極めて少ない。特別な口紅をつけてキスをすると顔が入れ替わるという特殊な設定だが、そこを大きく広げることはしていないのだ。複雑な状況にならないよう、劇中で顔を入れ替えるのは主演2人だけで、他の人を巻き込むことはしない。また、「今、スクリーンに映っているこの人はどっちなのか?」と観客を惑わせるシーンはひとつもない。直近では『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』など、見た目の入れ替え設定を取り入れるなら、普通は観客を含めて騙すものなのに。複雑な状況も、観客への騙しも、余計な混乱を引き起こすということで排除されている

辛うじてミステリ要素(種明かし)があるとすれば、醜い顔を持つ累(芳根京子)の、既に亡くなっている母親(檀れい)の件であろう。口紅の本来の持ち主であるが、中盤で彼女もまた顔を入れ替えて女優業をしていたと明かされる。ただ、劇中でのセリフに「薄々、気づいていただろ」とあるように、観ているほうもなんとなく解っているのだが。それより気になるのが、母親と入れ替わっていたほうの人で、鎖に繋がれて監禁させられていたらしいのだが、どこの誰なのか全く教えてくれない。累の本当の母親がどっちなのかすら、映画を観る限りでは解らないのだ。

この話、累以外の人物がおざなりというか、酷いくらいに突き放されている。累と顔を入れ替えるニナ(芳根京子)の母親は1シーンだけ登場するが、道具のように扱われたまま相当の仕打ちをされている。一方の主人公であるはずのニナに至ってもそうで、累に対する憎しみは、顔を入れ替えられることで人生全てを乗っ取られそうになることへの恐怖や怒りによるもので、それ以前の内面に関しては、女優らしい感じ悪い性格だというくらいしか説明されない。

累と、全てをコントロールするマネージャー・羽生田(浅野忠信)が、周りの人間を利用して、のし上がっている。他人の気持ちを汲み取らず、むしろ己のために利用していく辺りは、サイコパスに近い。原作では、ニナの元来持っている歪んだ内面も表されるので多少は自業自得も入っているし、累はニナのことが嫌いではないので酷いことをしようとする前は逡巡したりするのだが。映画に関しては、ニナは利用されて捨てられるだけの、ほぼ純粋な被害者でしかない

脚本で「ん?」となるところは原作準拠であることが多い。特に演出家の烏合(横山裕)が途中でフェードアウトするのは気になるところである。ここは原作同様に新章に入ったからなのだが、ジャニーズ事務所の人気者をキャスティングして、原作以上に人の内面を見抜く力を強調されている(ゆえに物語上は重要そうな)人物が、たいした理由もなく出てこなくなるのは唐突ではある。セリフで一言、バレそうになったので羽生田が何かしたとかあれば、まだいいのだが。

まあこれも、累以外の人物に注目させないということだろう。ともかく、こうして映画であれば本来必要な要素ですら排することで、ひたすら土屋太鳳の演技に集中するよう仕向けてくる。ややこしいのだが、顔を入れ替えているので、特に中盤以降は主に土屋太鳳が累を演じている。土屋太鳳の役どころは、天才女優という難しいものである。天才歌手とか天才コメディアンとかなら、ステージ上での音声を消して沸き立つ観客の映像を挟むとかのギミックが通用するが、天才女優なのに演技を見せないのでは説得力に欠ける。

この映画、ラストでストレートかつ大胆に、累が天才女優であることを示す。土屋太鳳を大舞台の上で踊らせるのである。土屋太鳳の運動神経とスタミナのえげつなさは周知の通りだが、最後の最後にその肉体性を爆発させることで、論理を超えて惹きつけられてしまう。それまで同等に2役を演じてきた芳根京子ですら、ここで突き放すのである。

物語上は、ニナの策略によって舞台の上で醜い顔(つまり芳根京子の顔)に戻るように仕向けられるものの、累が上手を取って阻止している、ということになっている。ただし、直前のセリフによって、踊っている最中に顔が変わることはあり得ないことは解っている。何より、観客は「とにかく土屋太鳳の演技と踊りを見せてくれ」という気持ちで満場一致してしまっている。加害者と被害者がはっきりしているので、社会常識による論理からすれば「大観衆の前で素顔を晒して大恥をかけ」と願うべきなのに、土屋太鳳の持つポテンシャルが、そんなものを吹き飛ばしてしまうのである。

※ なお、ラストの謀略は、ニナにしても、累にしても、偶然性に頼った相当な綱渡りではある。ニナが会場に来なかったら、もしくは舞台裏の自分に会いに来なかったら、累はどうするつもりだったのか。まあ、そんなことは土屋太鳳の肉体の前ではどうでもいいが。

烏合が途中でフェードアウトさせられたのも、仕方ない。内面を見て取れる烏合がこの場にいたら、土屋太鳳の名演もブレてしまうだろう。とにかく、これは土屋太鳳というモンスターを呼び覚ますための儀式のような映画であった。天才女優に天才女優の役を与えて覚醒させるなんて、実にロマンではないか

 

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