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【洋画/ドキュ】『ジェイン・ジェイコブズ:ニューヨーク都市計画革命』感想レビュー--街には人間が必要だという主張は、当然コルビュジエ批判へと繋がる

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監督:マット・ターナウアー
配給:東風=ノーム/公開:2018年4月28日/上映時間:92分
声の出演:ヴィンセント・ドノフリオ、マリサ・トメイ

 

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64点
時の権力者と親密な関係を持ち、都市計画を牛耳っている大物デベロッパーが、貧困層が住む街区を取り壊して高層ビルや道路を作ろうと計画する。そこに現れた一介の庶民でもある女性ジャーナリストが無謀にも立ち向かい、計画を中止させることで、住民の生活を守ることに成功する。その後もデベロッパーは何度もこの女性に計画を潰され、ついには頼りにしていた市長からも引導を渡されて、失意のまま表舞台から姿を消す。

こうしてまとめてみると、いかにもアメリカらしい、勧善懲悪のスカッとするエンタテイメントのようである。問題は、これがフィクションではなく、れっきとしたドキュメンタリー映画であることだ。実際に1950年代以降のニューヨークで起こった都市計画の模様である。こんな単純な話にしてしまっていいのだろうか。

本作の主人公は、ジェイン・ジェイコブズという女性。1961年の著書『アメリカ大都市の死と生』は、都市計画を語る上で欠かせないバイブルである。昨年の一級建築士試験でも取り上げられた。ボクは不勉強にして、まだ読んでいないが。

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

 

 

一方、本作で悪役とされてコテンパンに叩きのめされるのが、ロバート・モーゼス。20世紀前半のニューヨークの都市開発を一手に担った人物である。彼のおかげで、ニューヨークには高層ビルがばんばん建ち、道路や橋がばんばん作られてインフラも整備された。ニューヨークの発展には彼の功績もけして少なくないはずだが、ジェイコブズが登場した50年代から話は始まるため、劇中では彼が没落していく経緯ばかりが示されていく。

映画は、当時の資料(映像、音声、紙媒体など)やイメージ映像を並べつつ、合間に様々な人物のインタビューを挟んでいく構成となっている。インタビューを受けているのは、ジェイコブズの直接の知人もいるが、建築家や都市計画家といった専門家が割合としては多い。本人にとっては不幸なことに、モーゼスの映像や音声がふんだんに残っているため、ここぞとばかりに差別的な発言の様子を挟まれたりしている。何も知らないボクでさえ恣意的な引用だと気づいてしまうくらい、露骨な印象操作がされている。

当時はモダニズム建築の全盛期である。アメリカ各地でモーゼスの主導により、機能性を最優先させた無機質な高層ビルが次々と作られていった。また、これからは車社会だからと、巨大な高速道路がインフラの中心としてど真ん中に据えられ、街は機能ごとに車道によって区画され分断されていった。人間の多様性はモダニズムにとって邪魔であり、よって貧困街は不要なものとされ、住民は立ち退かれて代わりに人口増加を補うために高層団地が作られた。

ジェイコブズは、機能美を優先させた無機質で画一的なモダニズムによる都市計画を批判し、人がめいめい勝手な方向に行き交う街路こそが町の発展には重要であるとした。一見すると無秩序に見える人の流れも、実際は自然発生的に複雑な秩序が形成されるという。この映画では、現在のインドの人で溢れた街路が何度もインサートされ、ジェイコブズの自論に説得力を持たせている。街を人間の体だとすれば、その中を行き交う人々は血液のようなものだ。そのため、街は機能的に分断するのではなく、異なる多様な住民が自然と交わるように計画しないといけないと主張している。

モダニズムによる都市計画が、そこに住む人間という機能優先ではない乱雑な存在を軽視している点は、大きく同意する。日本においても、高層ビルと幹線道路で組み立てられた都市は関東地方の沿岸部に多いが、どこも住みにくそうだ。モダニズムの批判という意味でジェイコブズをポストモダンとする向きもあるが、あれは結局のところ芸術家のエゴが前面に出てしまった一過性の運動であった。むしろ個人的には、人間という有機的な存在に注目したという点で、日本のメタボリズムとの親和性を、ジェイコブズには感じた。メタボリズムの代表作である黒川紀章の中銀カプセルタワービルは、利用する人間の行動原理を重視したものである。まあ、その人間の動きそのものを黒川紀章は読み違えてしまったわけだが、それを含めて人間の不確か性を示したとも言える。

(ちなみに、黒川紀章はジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』を前半だけ翻訳して出版している。何か自分と近いものを感じたのだろうか)

さて、このようなアンチ・モダニズムによる批判の矛先が誰に向かうのか、少しでも建築の歴史を知る者なら想像がつくであろう。もちろん、モダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエである。「スイス出身の謎の建築家」とナレーションが入り、彼のパリ再生計画を「飛行機で上から見て考えたもので、住民の視点が欠けている」だと一蹴する。幸いにしてパリでは実行されず歴史ある町並みは今も健在だが、この再生計画はニューヨークに持ち込まれ、実行に移された。もっとも、コルビュジエの計画した十字型の高層ビルはオフィス用だったはずだが、モーゼスは意図的に誤解し、住居用の団地としてしまった。そういう意味で、コルビュジエもまた被害者であったと、映画中では示している。ご丁寧に、半目で薄笑いを浮かべるモーゼスの写真を挿入して。

(話はズレるが、モダニズム建築の巨匠の中でも、コルビュジエはどちらかというと芸術家寄りの人ではないかと個人的には感じている。ドミノシステムや近代建築の五原則によって建築の自在性を飛躍的に向上させたわけだが、それらも建築の機能性というよりも自己表現のための手段としてのような気がしている。漠然と思っているだけだが)

あくまでこのドキュメンタリー映画において、ジェイコブズの主張はよく解るのだが、モーゼスのほうが何を思っていたのかが結局のところ全く示されない。高層団地も、巨大な道路も、本人としては良かれと思って作ろうとしていたはずだと思う。いや、仮に自分の利益のためだとか、差別的な感情といったものが行動の源だったとしても、創り手が「それが事実だ」と結論付けたのであれば、そう示せばいい。モーゼスの心中が何も示されないことが問題だ。これでは、人間的な感情を持たない怪物のようではないか。ドキュメンタリーで実在の人物をそのように扱うのは、非常に危険である。

結果的に、モーゼスの手掛けた高層団地は、時とともに新たなスラムとなってしまった。理由は様々であるが、歩道や公園といった公共空間までの物理的な距離が遠く、街に人が溢れないことが一因であろうと結論付けている。そしてモーゼスが手掛けた団地がアメリカのあちこちで爆破させられる映像を並べつつ、現在の中国で大規模な高層団地群が建設されていることに触れ、今まさに未来のスラムが作られているという発言が入る。その問題提起はもっともなのだが、同じ轍を踏まないよう中国のデベロッパーへ訴えかけるためにも、モーゼスの心の内を映画の中で表現する必要があったのではないか。彼もまた、街を形成するための有機的な人間のひとりであるわけだし。

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ジェイコブズとモーゼスについてちゃんと理解するために、まずはこれを読もうと思っている。

ジェイコブズ対モーゼス: ニューヨーク都市計画をめぐる闘い

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