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【邦画】『孤狼の血』ネタバレ感想レビュー--東映が実録ヤクザ映画を復活するためにやらなければいけなかったこと

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監督:白石和彌/脚本:池上純哉/原作:柚月裕子
配給:東映/公開:2018年5月12日/上映時間:126分
出演:役所広司、松坂桃李、真木よう子、駿河太郎、中村倫也、中村倫也、ピエール瀧、石橋蓮司、江口洋介

 

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72点
東映の警察・実録ヤクザ映画については、全く詳しくない。まだ東映ポルノのほうが、それなりに名画座で観ているので、雰囲気を掴んでいるくらいだ。「東映魂」と聞くと、深作欣二よりも先に石井輝男とか鈴木則文といった名前のほうが先に思い浮かぶ。ボクは30代後半なのだが、かなり珍しい部類だと思う。

『仁義なき戦い』も『県警対組織暴力』も観ていないヤツが、あの頃のヤクザ映画復活ばかりに東映が大々的にアピールしている本作『孤狼の血』をきちんと語れるのか心もとない。過去作との比較ができないのだから。ただ、東映マーク(今のCGのヤツじゃなくて、岩に波がぶつかるアレ)に豚の鳴き声が被さり、そこから養豚場でのリンチシーンに繋がり、豚の肛門のアップから糞が出てくる冒頭数分で、これマジだなということは解る。

孤狼の血 (角川文庫)

孤狼の血 (角川文庫)

 

 

舞台は昭和63年の広島県の架空の市(モデルかつロケ地は呉市)。さっきからヤクザ映画と言っているが、主人公は非合法な操作でヤクザを締め上げるアウトロー警官・大上(役所広司)であり、彼とコンビを組む部下の日岡(松坂桃李)である。原作では、日岡は大上のやり方に振り回される若者という立ち位置であり、読者視点の代わりでもあるのだが、映画での松坂桃李は序盤から顔つきが凡人のそれとは違う。パチンコ屋で大上に「あの男に因縁つけてこい」と命令された日岡の顔が一瞬で変わり、我々の住む世界とは違う別種の存在になるし。つい大上を殴って失神させてしまうという映画オリジナルの展開もある。

暴対法以降、ヤクザ映画は時代劇として作らなければ成立しなくなった。コンプライアンスどうこう以前に、実感として同じ空間にヤクザ的なものが存在しているような気がしないからであろう。本作にも出演している伊吹吾郎がラジオ出演時に、かつては撮影中に「本物」を読んで、細かい所作をレクチャーされていたと語っていた。そんなことは今では無理である。今の日本映画に出てくるヤクザは、地方の貧困層の若者を束ねて上前をはねているだけの小さな存在だ。いや、実情は知らないし、ここ最近も銃弾が飛び交っているわけだけれど。

とにかく、魅力的なヤクザなんてものは、今の日本には存在してはいけないことになっているし、どこかに存在しているのだろうが庶民が確認するのが困難な状況だ。ドキュメンタリー映画『ヤクザと憲法』でも、今のヤクザに入ってくる若者は引きこもりみたいな他にどこにも行けない人だったりして、ある種のセーフティーネットみたいな役割になっていることが解る。憧れの存在ではない。

そういうこともあり、本作『孤狼の血』では、舞台が「現在」ではないことが強調される。プルタブ形式の缶ビールの飲み口が意味ありげに映るのも、時代性を示す狙いだろう。また、昭和63年ということで、当時の天皇の体温や血圧がブラウン管のテレビに映ったりもする。白石和彌監督は、『日本で一番悪い奴ら』における国松長官銃撃事件などのように、現実の社会的事象をフィクションの中に絡めていく手法が巧い。『サニー/32』然り。

時間的には繋がっていても、空間的には別世界なんだというアピールによって、ヤクザそして大上のような悪徳警官にある種のヒロイズムを持たせることができる。で、ここで描かれる大上の信念は何かというと、「過程がどうであれ、結果が良ければそれで良い」というやつだ。暴力も、裏金も、放火も、最終的にカタギが安全になるのならば構わない。この考え方は、今の現実世界では共感しづらいだろう。個人的には、東日本大震災がきっかけだと考えている。あの時期は「結果的に正しい目的を達成できるなら、どんなデマを流したっていい」という考えが横行し、そのせいで今でも理不尽に不利益を被っている人たちがたくさんいる。

原作では大オチになっている日岡の正体が、映画では中盤を過ぎたあたりで明かされている。また、大上の死後もダイジェスト的ではなく尺を割いており、日岡主導によるヤクザそのものへの壮大な復讐劇がクライマックスとして配置されている。中盤の「ミイラ取りが何とか」というセリフの通り、大上から日岡へ価値観が継承されていることを、じっくりと描きこんでいる。

繰り返すが、大上の価値観自体は現在では容認できないものだ。そのため、その価値観を日岡が受け継いでしまうのも、本来ならば眉を顰める事態だ。それを回避するため、まずは松坂桃李の演技力によって日岡を「我々とは別の世界の存在」にしている。そして、大上死後の日岡の行動原理は、疑似的な父親に対する個人的な思いによるものとすることで、価値観そのものへの是非をうやむやにしている。

あの養豚場の若造がボコボコにされるのが、何よりの証拠だ。あれは、感情に任せた不当な暴力であり、大上同様、生まれ変わった日岡がヒーローにならないようにしないといけないために必要だったシーンである(だから、その暴力を止めるのが完全なカタギであったのも正しい)。また、生きている関係者が一堂に介したクライマックスは、映画的には素晴らしい(トイレのシーンでのカメラの動き!)にも関わらず、カタルシスを感じない。善悪がはっきりせず、誰にも肩入れできないからだ。

この路線を今後も続けるとしたら、こうやって個人感情の話に収束させて大義をうやむやにするように配慮していく必要がある。逆に言えば、現代でもヤクザ映画を創ることのできる手段を見つけたということでもある。

 

ちなみに、パンフレットが邦画では珍しくボリュームがあって、非常に読みごたえがある。スチール写真が数多く、またそれぞれ大きく載っているのも良い(ちっちゃい写真をただ並べただけのパンフばっかじゃん、最近)。相関図やキャスト・スタッフのインタビューはもちろんだが、特に劇中のタイムラインはありがたい(これ、他の映画でも載せてほしい)。ロケ地マップでは、呉市内の地図とともにロケ場所が紹介されていて、『この世界の片隅に』とけっこう被っていることが解る。歌広場淳のコラムだけは謎だが、何か関係があるのだろうか。そして最後につけられた「東映 警察・実録やくざ映画クロニクル」が圧巻で、ここだけ紙質を変えたモノクロページなのだが、東映の過去作ラインナップや、中嶋貞夫と関根史郎のインタビューも載っている。900円だが、買って損は無い

 

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