ヤガンEX

映画とか漫画とか似顔絵とか

【邦画】『アイスと雨音』感想レビュー--あまりに手間のかかったやり口で虚構と現実をごちゃ混ぜにしてくる、全く新しい映画館体験

f:id:yagan:20180318214405p:plain
監督&脚本&編集:松居大悟
配給:SPOTTED PRODUCTIONS/公開:2018年3月3日/上映時間:74分
出演:森田想、田中怜子、田中偉登、青木柚、紅甘、戸塚丈太郎、MOROHA

 

スポンサードリンク
 

 

72点
個人的には、映画館に行く最大の目的は、今までしたことのない新しい体験をしたいという願いからである。映画ができてから100年ちょっと経っており、新しいことなんか簡単にはできないことは承知ではある。だが、小説だの音楽だの演劇だのと言った他のジャンルと比べれば、まだ映画の歴史は浅いほうである。そのため、たまには過去にはない全く新しい映画体験をできることがある。本作『アイスと雨音』のように。

といっても過去の全ての映画を観ているわけではないので、『アイスと雨音』がどれほど斬新なのかは判断できない。映画全体を1カットで撮るというのは、過去にいくつも例がある。ヒッチコックだって映画『ロープ』で似たようなことをやっている(正確には、当時はフィルムの長さに限界があるため、1カット風に見せているのだが)。だが、1カットの中で時制が何度も飛ぶのは非常に珍しいのではないか

具体的に、冒頭の流れを説明する。謎の男の顔のアップからカメラが反転すると、そこは演劇の練習室。部屋の中央のテーブルを囲んで6人の若い役者が座り、壁際では長テーブルを前にして監督とスタッフが並んで座っている。ひとりの役者の女の子(森田想 もりた・こころ)が自己紹介の挨拶を終えたあと、台本の読み合わせが始まる。どうやら公演があり、初日の初顔合わせだということだ。と、セリフを読んでいる森田想がおもむろに立ち上がり、動き込みで演技の練習を始める。読み合わせ中だとしたら、ちょっと異常な行動だ。カメラは森田想を追って、監督たちとは反対側の壁際に移動したひとりだけを映す。そして練習を続ける森田想を映しながら、ぐるっとカメラが反転すると、さっきまであったはずのテーブルは無くなり、みんなして立ち稽古をしているシーンへと変わっている。

つまり、ずっと森田想を映したままの状態で、日にちが変わっているのである。1カットでありながら、シーンは次へと進んでいるわけだ。アイデアもさることながら、カメラが後ろを向いたほんの数分の間に、あのたくさんの長テーブルはどうやって片付けたのか。まずは具体的な撮影方法が謎すぎて圧倒される

74分もの間、この調子なのだ。1カットの間に映画内での時制は約1か月も経っている。部屋の外にだって出るし、公道でもちゃんと芝居をしている(間違いなく、外のシーンで周りにいるのは何も知らない一般の人だ)。カメラを含めたすべての人間の行動を秒単位で管理しなくては、これは成り立たない。思いついたところで、簡単に実行できるような代物ではないのだ。少しでもミスをしたら最初からやり直しだし。鏡ごしに役者を撮るところとか冷や冷やしたなあ。ちょっとでもカメラやスタッフが映ったらその時点で終了だ。

過酷である。撮影現場の過酷さが前面に来る。映画の内容を差し置いて技巧が目立ってしまうと、「創り手の自己満足」を強調することになってしまうのが常だ。だが本作の場合、その技巧がとんでもなさすぎて、そういった考えにまで至らない。ただただ、すげえもんを観せられているという感じだ

で、この過酷な撮影の先に、虚構と現実の境界を取っ払うという、あまりにも映画的な企みがある。時制のコントロールもそうだし、「演劇の練習をする」という劇中劇になるとスクリーンサイズが変わる(というより、上下が黒くなる)のも虚構の入れ子構造であるし。たまにカメラ目線でこちらに喋りかけてくるし。常にカメラの存在が認識されるというのも、そういうことだろう。

さらには、実はこれが本作最大の肝ではあるが、一体そこに実在するのかどうかすらわからない謎の存在が、これでもかと虚構と現実をごちゃ混ぜにしてくる。この存在についてはぜひ映画館にてファーストコンタクトしてほしい。あんまり鑑賞前に映画の内容を検索しないほうがいかも。

74分が経つ直前、ダメ押しで虚構と現実を混ぜっ返して、この映画は終わる。これは半ば予想できることで、似たことをやっている園子温『地獄でなぜ悪い』のラストほどの衝撃ではなかったが、やはり本作ならではの余韻となっている。

ともかく、全く新しい映画館体験をしたい方にはお勧めです。ソフト化の際に自宅で観ても、これの本当の凄まじさは伝わらないと思われるので、ぜひ映画館に足を運んでください。

 

スポンサードリンク