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【邦画】『富美子の足』--エレキギターをかき鳴らす的な音でごまかすの、そろそろやめないか?

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監督:ウエダアツシ/脚本:ウエダアツシ、平谷悦郎、楢原拓/原案:谷崎潤一郎
配給:TBSサービス/公開:2018年2月10日/上映時間:81分
出演:片山萌美、淵上泰史、でんでん、武藤令子、山田真歩、福山翔大、田村泰二郎

 

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55点
若い美女である富美子(片山萌美)のしなやかな太ももにハチミツをかけ、さらには数匹の生きたアリを放つ。太ももに群がるアリを凝視して、恍惚の表情を浮かべるじいさん・塚越(でんでん)。こうして文字にしてみると気色悪いことこのうえないが、実際にスクリーンで映像を観ると、そうでもないのである。この映画がいまいちな理由はここにある。

谷崎潤一郎フェティシズム小説集 (集英社文庫)

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富美子のナレーションにより、まずはこれまでの自身の半生が語られる。電車では痴漢に足を触られ、会社では電話中に社員の男が太ももに顔を擦りつけてきたり(しかしどんな会社だ)と、足のせいで散々な目にあっている。顔や体を整形してデリヘル嬢になっても、やっぱり男どもは足ばかりに執着してくる。

そんなデリヘル時代に出会った余命いくばくもない塚越から、「死んだら2億円の遺産をすべて渡す」という遺書を渡されたうえで、毎日自宅に通うよう頼まれる。家政婦のような立場で働いているが、もちろん塚越が富美子の足を独り占めにするためだ。富美子がトイレに入っている間にも足の指を1本づつ舐め続けるなどフェティシズムを暴走させているのだが、どうにも狂人に見えない。なんだか狂人を演じている人みたいだ。

なぜかというと、塚越は最初から最後まで、狂った姿しか見せていないのだ。セリフは全て叫び調で、富美子の足に関することしか言わない。塚越を演じるでんでんという役者は、主に『冷たい熱帯魚』以降だが、温和な顔立ちと口調の中からどす黒い狂気が段々と現れてくるからこその恐ろしさを持っている。割と多いヤクザの親分的な配役でも、偽りの穏やかさが見えているからこその迫力があるし。だが本作には、そんな表向きの面がない。純粋に100%狂っている。これでは逆に嘘っぽいのだ。

でんでんは、最初から最後まで何も変わらず、ずっと富美子の足に執着しているだけなので、ここにドラマの入り込む余地が無い。富美子の足に囚われることで人格が壊れる瞬間を見せるのは、でんでんの甥であるフィギュア職人の男・野田(淵上泰史)である。最初はなんら足(というか人間)に興味の無かった野田だが、あるきっかけを境に、塚越と同じように富美子の足の虜になってしまう。ところがここ、一番大事なところだが、あまり説得力が無い。え、いつの間に、って感じだ。

画的なおかしさばかりを並べて、なんとなく狂気っぽさを出しているだけみたい。富美子にしてもそうで、実は冒頭のシーンでオチがほのめかされているのだが、富美子のキャラクターがシーンごとに振れ幅が大きすぎて安定していないために、そこに至る経緯がよく理解できなかったりする。最初の過去語りとか無くして、富美子に関する情報は極力減らしたほうがいいんじゃなかったかなあ。というか、この話に富美子視点って必要だったのだろうか。

ともかく、表面的な狂気っぽい演出でどうにかしようとしているところが、「TANIZAKI TRIBUTE」の前作でありちゃんと物語のあった『神と人との間』との決定的な違いだろう。この映画に限らないけど、エレキギターをかき鳴らす的な音を流して何となくごまかすの、そろそろやめたほうがいいんじゃないか。

ちなみに、元となった谷崎潤一郎の短編を読んでみたが、「女の足に囚われるじいさん」という基本的な設定だけいただいているだけで、映画はほとんどオリジナルであった(谷崎潤一郎は原作ではなく原案)。手紙という体で野田視点の一人称で語られているのだが、塚越は「江戸っ子の通人」という表向きの顔があって足フェチは知られざる性癖であったり、野田も最初から富美子に魅力を感じていたりと、文章的な耽美さはともかく、設定は映画より断然まともなのだ。あと、富美子の内面まではそんなに触れられていないし(野田視点だから当然だ)。なんかこう、付け加えたところがことごとく余計な気がする。

 

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「TANIZAKI TRIBUTE」レビュー

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