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【邦画】『火花』--芸人のカリスマ性を表現するのは、カリスマ性のある芸人監督には無理だろう

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監督:板尾創路/脚本:板尾創路、豊田利晃/原作:又吉直樹
配給:東宝/公開:2017年11月23日/上映時間:120分
出演:菅田将暉、桐谷健太、木村文乃、川谷修士、三浦誠己、加藤諒

 

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55点
どうしよう。この作品を「吉本の芸人が書いた小説がメチャクチャ話題になったので映画化した」という文脈でとらえるならば、いつものようにアラを指摘すればいいのだが、どうしても自分の中で葛藤がある。というのも、ボクは映画監督・板尾創路の大ファンなんである。

板尾創路監督の過去2作とは、明らかに作風が違う。いつものように筆文字で「板尾創路の火花」と書かれた題字も出てこない。あまりにフツーの作品であり、板尾創路の作家性はほとんど見受けられない。強いて言えば、東京タワーのところくらいか。板尾監督作として評するならば、物語上のアラを指摘すること自体が間違っている。だがこれは、芥川賞受賞作『火花』をどのように映画化するかというところに主眼があり、監督は匿名に近い。ファンとしては心苦しいが、板尾監督のことは一旦忘れて考えるしかないようだ。

映画は、暗闇の中で2つの細い火花が上昇する映像とともに、2人の男が会話する声が流れるという印象的なシーンから始まる。その会話の中で、漫才師としてコンビを組もうということになる。すでに原作を読んでいたので、ここで「ん?」となった。これ、漫才師の師弟の話だったはずじゃ。ここで喋っている2人のうち片方は、この話のメインの人物ではないはずだが。

なお、原作冒頭には、このような会話はない。映画オリジナルである。どうも物語の核がブレブレなのだ。漫才師特有の変わった師弟愛がメインのはずなのだが、コンビ間の関係だったり、才能ではなくキャラクターによって売れていく後輩への気持ちだったりが、師弟愛の話より目立ってしまっている。実際この映画、面白いのはそっちのサイドの話なのだ。

若手漫才師の徳永(菅田将暉)が、地方営業で出会ったメチャクチャな先輩漫才師・神谷(桐谷健太)と出会い、慕うようになる。神谷から「俺の伝記を書け」と言われ、徳永は桐谷の約10年間の記録をつけるようになる。で、原作を読んだ時にも感じていたことだが、神谷のカリスマ性が、イマイチ伝わってこない。徳永は、神谷の何に惹かれたのか。これたぶん「凡人の理解の範疇を超えた天才」と「どうしても天才になれない凡人」の話なんだと思うのだが、その前提となる「天才」の部分が見えてこない。

忘れようと言いつつここでまた名前を出してしまうが、板尾創路が「凡人の理解の範疇を超えた天才」型の芸人というのが、ひとつあるのではないか。この作品は凡人である徳永側の視点が重要なのだが、凡人ではない板尾創路はそちらのほうに立つことができない。だからどうしても、神谷のカリスマ性を客観的に表現することができないのではないかと睨んでいる。

そんなわけで、後半における神谷のカリスマ性が崩れていく様も、やっぱり伝わらない。だってこっち(観客)からすれば、神谷の魅力をひとつも教えてもらっていないのだから。で、さっきも少し触れたけど、メインじゃない話のほうが面白いんである。けっこう謎なのだが、映画が一番盛り上がるところは、徳永がコンビを解散するときのラストライブのシーンだったりするし。冒頭シーンと対にもなっているわけで、この構成だと、メインはコンビの話だったんじゃないのかとすら思う。尺のバランスがおかしいだけで。

あと、鹿谷という天然キャラの後輩が売れっ子になっていく様に忸怩たる思いになるところも、加藤諒という配役を含めて、良かった。徳永の、一言では言い表せない心の中の葛藤が、手に取るように伝わってきた。このように、サイドストーリーばっかり面白い。不思議だ。そんなアンバランスさこそが、板尾創路の作家性の成せる技なのだろうか。って、むりやりまとめようとしたけど、やっぱ違うな。ただ、監督・板尾創路のフィルモグラフィーにこれが並ぶのは、ちょっと嫌。

 

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原作小説

火花 (文春文庫)

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