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【邦画】『泥棒役者』感想レビュー--元は演劇だったものを「演劇みたいな映画」にする意味はあるのか?

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監督&脚本:西田征史
配給:ショウゲート/公開:2017年11月18日/上映時間:114分
出演:丸山隆平、市村正親、石橋杏奈、宮川大輔、高畑充希、ユースケ・サンタマリア

 

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54点
いつも思うのだが、元は演劇だったものを「演劇みたいな映画」にする作業に、どれほどの意味があるのだろうか。「演劇みたいな映画」というのは、単に密室劇というだけではない。法廷モノや『SAW』のようなワンシチュエーション・ホラーも密室劇だが、「演劇みたいな映画」とは違う。そうではなく、前情報なしに観ても「これ、元は演劇だったんじゃね?」と気づいてしまうようなのが「演劇みたいな映画」である。

「演劇みたいな映画」の最大の特徴は、映画的に練らなければいけないところを演劇的手法のままに残すことでごまかしているところである。本作で言えば、というより数多の「演劇みたいな映画」がそうなのだが、あまりに人工的な会話が続くところ。別人と間違われる展開自体はヒッチコックだってやっていることだが、その見せ方が映画じゃない。奇抜な恰好の市村正親(童話作家の役)が「なぜ自分が泥棒を編集者だと勘違いしているか」を声高にひとつづつセリフで説明していくのだが、それは演劇でしか許されていない手法だ。

本作は簡単に説明すると「泥棒に入った男が、家の住人や訪れた人たちそれぞれに、別の誰かと間違われる」という話だ。役者たちは勘違いを持続し続けるために、タイミングよく舞台に出たり引っ込んだりしている。こういった人の動きが、話の展開を保つためにしているようで、やはり人工的である。演劇は、その舞台上の制約から人工的でも許されているジャンルなのだが、映画におけるリアリティからはかけ離れている。

そして、元は演劇であった「演劇みたいな映画」における一番の問題がここだと思うのだが、映画に変換しやすいところばかり、無駄に映画っぽくしているのだ。舞台の外側の情報を映像で挟み込んだり、アニメーションを加えたり。元が、演劇として完成度が高ければ高いほど、この映画的変換が蛇足になってしまう。だって本来、それらは必要なくても成り立っていたわけだから。

そんなことより先に、トイレの配置を変えるほうが先だろう。あの規模の豪邸で、リビングとトイレが扉一枚で直結してるってありえない。これだって、演劇ではトイレの扉が舞台上に置かれていないといけないからであって、その配置を映画にした時もそのまま同じにしちゃっているからなんだろう。そういうところに気づいてほしいのだが。

物語的には、勘違いがいつバレるかというスリルが少ないのと、勘違いがバレ始めてからが長くて変に感動させようと躍起になっているのが辛かった。結局、この映画の感想をネットで検索してみても、そんなに出ていない高畑充希ばかりが称賛されているし。この映画のメインキャラクターで唯一、「演劇みたいな映画」の外側にいた人だから。あんな聖女はいないよ、とは思ったし、過去だけじゃなくて今日のこともちゃんと話せ、とも思ったが。

『散歩する侵略者』だって元は演劇なのにきちんと映画になっているのを考えると、やっぱりこの手の「演劇みたいな映画」は手抜きなんじゃないかなあと、思わざるを得ないのである。あと、ユーチューバーなめんなよ。

 

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 舞台版は片桐仁が主演

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