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【邦画/アニメ】『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』--川村元気がシャフトに対して言わなければならなかったこと

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総監督:新房昭之/監督:武内宣之/脚本:大根仁/原作:岩井俊二
配給:東宝/アニメ制作:シャフト/公開:2017年8月16日/上映時間:90分
出演:広瀬すず、菅田将暉、宮野真守、三木眞一郎、花澤香菜、松たか子

 

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45点
本作をレビューするうえで、非常に大きな問題が横たわっている。ネタバレ防止を掲げるには、ストーリー説明は冒頭から4分の1までという一般的見解がある。したがって、本作の場合は最初の駅のシーンあたりまで、が妥当だろう。だが、それ以降に触れられないとすると、実は本作のジャンルですら言うことはできないのである。

主人公の中学生・典道(菅田将暉)と、友人の祐介(宮野真守)、クラスメイトの女子なずな(広瀬すず)がメインの登場人物。夏休みの登校日、典道と祐介の2人が掃除当番なのでプールに行くと、スクール水着姿のなずながプールサイドで横たわっている。

そこで3人で水泳の勝負をすることになる。プールの中で典道は、横で泳いでいるなずなの顔に気を取られたり、ターンの時に落ちてきた不思議な石を見つめたりしている。そうこうしているうちに、祐介がなずなに続いて2着となる。顔を上げた祐介に向かって、なずなは「今日のお祭り、一緒に行こう」「だって好きだから」と告白する。

ここでちょっと混乱した。この作品は基本的には冒頭からずっと、典道の視点で進んでいる。勝負中のプールの中のシーンも、もちろんそうだ。しかし何の前触れもなく急に脇役だったはずの祐介の視点となり、しかも「なずなからの告白」なんていう大イベントを受けている。あまりに急だったので、典道がスパートをかけて祐介を追い抜いて、なずなからの告白を受けているのかと思った。

祐介は典道の自宅に行き、告白されたことを話して、自分の代わりになずなとデートしてほしいと頼む。それより前のシーンで祐介は「なずなが好き」と典道に公言しているのだが、それゆえ典道の想いにも気づき、愛情よりも友情を選んだという、ありがちだがちょっといい展開ではある。典道が会いに行くと、なずなは大きなバッグを持っていた。

色々あったあと、「かけおち」しようとしていたなずなを母親が強引に連れ戻すバッドエンドのような展開があり、「あの時、俺が勝っていれば」と典道が不思議な「石」(あれ、石じゃねーだろ、とは最初から思っているが)を投げると、プールのシーンがもう一度始まり、今度は典道が祐介に勝っているという展開になる。そして、なずなから花火大会に誘われるのは典道となる。

(ところで、原作のドラマからそうなのだが、こういうのって主人公に選択権があったうえで「あの時、あっちを選んでいたら」となるもんじゃないのだろうか。そもそも典道が水泳の勝負に勝てた可能性があったのかが曖昧である。これからあとに出てくる「あの時・・・」も全て、典道の意思によって選択した事項ではない)

「同じ時間を繰り返す」というのは宣伝でも触れられている。ただこの繰り返されている時間軸の解釈が、この時点で一切説明されない。時間が巻き戻ったというタイムリープなのか、別の時間軸だというタイムパラドクスなのか。初見の場合は、何を観させられているのか理解できない。とりあえず、先ほどまでの「典道が勝負に負けた展開」は、作中の誰の記憶にも残っていないのだが。

このせいで冒頭に述べた非常に大きな問題が発生している。ここで何が起こったかを説明するとネタバレになってしまうのである。まあ、それはいい。ただ、おかしなことに、祐介の人格が変わっている。典道は祐介に勘づかれないようになずなと花火大会に行こうとするが、見つかってしまう。祐介は嫉妬の感情をあらわにして、典道に楯突くようになる。先ほどの時間軸とは、明らかに別人だ。

水泳の勝負に勝ったか負けたかで、祐介の人格が変わる理由はない。勝負とは全く関係なく、別の世界みたいだ。で、ハッキリ言ってしまうが、この話って「同じ時間を繰り返す」ということに対して、一切のルールが無いんである。例の「石」の扱いからしてルール無用。話が難しい、意味が理解できないという感想は多いが、それは鑑賞者が馬鹿だからではない。この話が理論的に成立していないため、ワケが分からなくて当然なんである。

ここから先はネタバレありのブログなんかで脚本上の矛盾点を山ほど指摘してくれると思うので、別の観点からの問題点をひとつ。東宝の川村元気プロデューサーは、たったひとつのある重要な仕事をしていない。それは、アニメ制作のシャフトに対して、「シャフトらしさを目立たなくしてくれ」と注文することである。

シャフトは『魔法少女まどか☆マギカ』『化物語』シリーズなどで実績のあるアニメ制作会社だが、あくまでコアなアニメファン向けの作品を作ってきた。夏休み期間中に東宝配給により全国のシネコンでかかるような作品は初めてであり、これまでとは全く違うターゲット層を相手にしなくてはいけないのが本作なんである。

そこでシャフトは、中途半端にシャフトらしさを残してしまった。なずなが初めて顔を出すシーンでは「シャフ度」と呼ばれる不自然な振り向き方をしている。アニメファンだったら、これ以降のなずなが、キャラデザが同じ戦場ヶ原ひたぎとダブって見えてしまう。また、戦場ヶ原なんて知らない圧倒的多数の観客にとっては「この人は首の骨が折れているのか?」と思ってしまうのではないか。

また、後半で急に表れる「主人公の顔が急に別タッチの画になり、それで驚きを表現している」という表現はどうか。この表現方法が全体的に散りばめられているならともかく、1シーンだけである。『化物語』を見た人なら「ああ、いつものか」で済むが、さきほどの「戦場ヶ原を知らない圧倒的多数の観客」からすれば、違和感バリバリではないか。

更に、シャフトといえばあえてリアリティを無視した空間スケールである。体育館なみに広く天井の高い教室とかだが、本作ではそのようなことはしていない。ただ、何度か象徴的に挟まる学校のロビーと螺旋スロープのスケール感が、本作の世界観から逸脱している。風力発電のプロペラは、現実でもスケール感を混乱させるくらいデカいのでいいのだが。

ついでに、これはどうか。担任の先生は、男子生徒から巨乳であることをからかわれるのだが、カーディガンなのにピッタリと体に張り付いているようで、胸の形が下部まではっきりと露になっている。俗に「乳袋」と揶揄される、現実には存在しない構造の服である。これは深夜アニメでしか用いられない限定的な手法だ。シャフトがこれを「一般的な表現方法ではない」を気づかないのは仕方ないが、川村元気は注意すべきだろう。

同じく川村元気プロデュースである『君の名は。』の時は、完全に新海誠をコントロール下において、本来コアなファン向けだった彼の作風を万人受けするように変換していた。なぜシャフトに対しては、それができなかったのだろうか。ともあれ、本作の端々に現れるシャフトっぽさが、作品全体に対する不必要なノイズとなってしまっている。

 

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