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【邦画】『FOUJITA』--藤田嗣治はパリでも戦時中の日本でも、基本的に何も変わっていない

 

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第二次大戦中に軍の指示に従って戦争画を描き続けた藤田嗣治は戦争の被害者か加害者か、いまだに議論は割れている。藤田を擁護する意見に多いのは、『アッツ島玉砕の図』のどこが戦意高揚になるんだ、あれ見たら戦争を嫌悪するだろ、というもの。ただ、あの壮絶な戦争画は、すでに日本の敗北がほぼ決まっていた時期に描かれたものである。もちろん藤田は日本が負けることに気づいており、敗戦後に自分がどういう扱いになるかを考えたうえで、あの絵を発表している可能性はある。

ルポライターの大宮知信は、著書『スキャンダル戦後美術史』の第一章「戦争画家たちの戦後処理」において、かなり厳しく藤田を糾弾している。

スキャンダル戦後美術史 (平凡社新書)

スキャンダル戦後美術史 (平凡社新書)

 


この本の中で大宮知信は、戦中から戦後にかけて藤田と交流のあった画家・野見山暁治にも取材をしている。直接の体験談として語られる当時の藤田の様子は、本に大きな説得力を与えている。戦時中の藤田嗣治は積極的に戦争画を描いてアジテーターとして活動し、そのため軍からビップ扱いでバターやチーズなどの貴重な食料を貰っていたという。

それにしても、藤田嗣治ばかりを責めていていいのか。あの時、画家のほとんどは戦争画を描いていたわけである。この本でも指摘されているが、戦争画を"利用"してのし上がり、戦後は美術界の重鎮として君臨した横山大観のほうが藤田嗣治なんかより何倍も責任を追及されるべきなんじゃないかとは思う。

さて、前置きが長くなったが、小栗康平監督の映画『FOUJITA』は、戦前のパリ時代と戦時中の日本時代、それぞれの藤田嗣治を2部構成で描いた作品である。本作が主張するのは、パリでも日本でも藤田嗣治その人自身はなんら変わっていないということ。周りの全ての人を小馬鹿にするようなインテリ臭の漂うゆっくりとした喋り方は、素でそんな感じのオダギリジョーという配役もあって、非常にイヤミったらしい。そんなインテリ藤田は、パリの社交界では馴染むが、日本では浮いている。ただそれだけだ。

大宮知信は「藤田に思想性はなかった」と言うが、たしかに本作でも藤田嗣治は思わせぶりなことは言うが、真意はよく解らないことが多い。彼が本当に何を思っているのか垣間見えるのは、おそらくラストシーンだけだろう。

映画『FOUJITA』の一番の魅力は、各カットが絵画のように、構図から人物配置から小道具まで計算し尽くされていることだ。そのため、基本的にカメラは固定されていて動かない。特にパリのシーンはいずれも、まるでスクリーンが巨大なキャンパスであるかのように、非常に美しい。いっぽう戦時中の日本のシーンは、色調は変えているもののカメラワークは同じことをしているはずなのに、絵画のような美しさまでたどり着かない。小栗康平監督の狙いは、このあたりにあるように感じた。