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【邦画/アニメ】『バケモノの子』--渋谷の底に渦巻く闇

 

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細田守監督は、自分の好きなものに固執して作品に取り入れるという点で、宮崎駿とよく似ている。宮崎駿の場合、その対象がほとんどの人にとってはどうでもいいものであり、完全な門外漢として「おじいちゃんったら、あいかわらずねえ」という目線で見ることもできる。だが細田守が固執する「家族」なんてものになると、観客にとっても無関係ではなくなる。自分にとっての家族観と作品内のそれとを比べざるを得なくなり、賛否が入り乱れる事態となるわけである。

映画『バケモノの子』は、バケモノと人間という絶対に相容れないという前提を示したうえで、血の繋がっていない父と子の関係を描いている。反目しあっているが心は結びついているとか、子によって父もまた成長するとか、示される父子像は割と定型で、家族間にトラブルを抱えている人なら、こんなのはキレイ事だと拒否反応を示してしまうのかもしれない。個人的には、(これもまたよく指摘されているが)過去作同様、母(というか女全般)に求める「男に対する無償の愛」はちょっとなあと思う。本作では、主人公である少年の母親は物語開始時点ですでに交通事故で亡くなっているが、始まってすぐ白い謎の生物と出会い、かなり前半のほうでそれが母の生まれ変わりだと示される。白い生物は常に主人公のそばから離れず、幻想のような形でたびたび母の姿で現れては大丈夫だよ的な一言を投げかけるのだ。死してなお、母は息子に奉仕し続ける存在であれ、ということか。なんてご無体な。

ただ、これらは細田守が求める「現実では絶対に手に入れることのできない、ファンタジーとしての理想的な家族像」なんだと思う。せめてアニメというフィクションの中では思い通りにさせてくれという、ひとつの作家性だ。宮崎駿が大空に飛行機を飛ばしたり、元気な幼女に冒険させたりするのと本質的には同じである。

で、そのことは置いといて、ボクが本作に感動した点が、ひとつある。

本作に登場するバケモノの世界は、渋谷と同じ位置の別世界に存在する。主人公は、渋谷を右往左往しているうちにバケモノの世界に入り込んでしまう。で、本作には4回ほど、それぞれ違う時制の渋谷スクランブル交差点の遠景が出てくるのだが、これが本当にその当時の交差点を忠実に絵にしているのだ。主人公の少年期にはHMVのでっかい看板があるが青年期になると無くなっていたり、回想シーンでの一番古い時間ではQ-FRONTすらなく、代わりに東海銀行の看板がある。これはアニメでしか表現できないものであり、物語上の時制を現実の風景で表すことで、都市もまた生きているということを見事に具現化している。

冒頭、渋谷を行き交う人ごみの中で主人公の少年が「大嫌いだ!」と叫ぶと、周りが一瞬足を止めるが、すぐに何事もなかったかのように歩き出す。まるで濁流した水面に小石を投げ入れた時、瞬間的に流れは変わるがすぐに元に戻るかのように。すり鉢状となっている渋谷の底は、行くあてもなく多くの人がさまよい、そんな人ごみによって形成された闇が、常に濁流し続けている。

(なお、最近のアニメでは、人ごみの表現に重きを置いているのをよく見かける。一種のトレンドだろうか)

バケモノの世界では、人間には心の奥底に闇を抱えており、暴発するので関わらないほうがいい、ということになっている。主人公はバケモノとの「良質な父子関係」&「すべてを包み込んでくれる女の存在」によって闇を抑えることに成功したが、対比されるもうひとりのバケモノを父とする人間は、闇を抑えきれず人間世界のほうの渋谷で暴発させる。こちらの父親は人格者だし、何がいけなかったのかは判然としないが、人間の奥底に潜む闇と、渋谷の底で渦巻く闇は、たしかにリンクしている。闇は、渋谷を濁流する人ごみを跳ね飛ばして暴走する。この闇の暴走は、もはや物語の主題からは離れている気もするが、渋谷なんだから仕方ない。