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【邦画】『イニシエーション・ラブ』感想レビュー--80年代の痛々しさと向き合った、映画監督・堤幸彦の最高傑作

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※ 直接的なネタバレは避けていますが、少しラストに触れていますので、これから映画を観るまたは原作小説を読む方は、そのあとに当文章をご覧になることをおすすめします。

 

映画監督・堤幸彦の最高傑作である。堤監督のフィルモグラフィーなんか半分も観ていないが、あえて断言する。TVドラマなど他ジャンルの作品を含めた場合は再考を要するが、映画としては一番だろう。

 

予算と納期はきっちり守るゆえ、発注者からの評判が著しく高い、サラリーマンの鑑のような堤幸彦は、作品の質についてはこだわりを持たないため、観客からは散々な評価を受けてきた。本作だって、いつもと一字一句違わない言葉で批判できる箇所がいくつもある。しかしそんな批判があまり気にならないのは、原作小説のちょっと変わった立ち位置に原因がある。

 

乾くるみの小説『イニシエーション・ラブ』が発行された2004年、本格ミステリ業界はちょっとした騒ぎになった。簡単に言うと、本格ミステリに新しいジャンルが誕生したのではないか、と。多くの本格ミステリ愛好家がこぞって絶賛したり批判したりした。だが、読書家の中でもさらに偏った小さな集団である彼ら(ボクもだけど)は、あくまで「本格ミステリとしての評価」しかしてこなかったし、それしかできなかった。同時に、このコップの中の嵐は、他の層まで伝わることなく沈んでいった。つまり、もっと大枠の小説そのものの評価は、あまりされなかった。

 

10年後の2014年、この小説が新たに注目される。くりぃむしちゅーの有田哲平がTV番組中で絶賛し、一気に100万部を超えるベストセラーとなったのだ。こういうことがあるたびに思うけど、TVの影響力ってすさまじいな。とにかく、本格ミステリとは無縁の人たちがこの小説をどう読むか、10年経ってから判明してきた。映画版もまた、「堤幸彦が小説を読んで何を感じたか」が反映されている。そう、サラリーマン精神の堤幸彦が、本作によって初めて作家性を発露したのだ。

 

乾くるみの小説は、文章力が足りないんじゃないかと感じるような下手な箇所が、実は伏線だったりして、余計に感動が増す。例えば「初めての性行為」のシーンが長々と書き連ねているところとか。同時に、堤幸彦のいつもと同じ下手なところとか観客を馬鹿にしてるところとかも、なんだか伏線かもしれないと思ってしまい、気にならなくなる。また、堤幸彦お得意で、いつもは滑りまくるコネタの数々も、本作のコンセプトには直結している。

 

(なお、映画版では、さすがに小説と寸分違わぬベッドシーンまでとは言わないが、松田翔太にやったのと同じキスシーンを、森田甘路に対しても前田敦子はやるべきだった。それは絶対に必要なシーンだ)

 

堤幸彦は小説から何を感じたか。言うまでもなく、80年代の痛々しさである。舞台である80年代のキーアイテムがこれでもかと登場し、2015年の観客である我々に嘲笑させるように仕向けている。ボク(1980年生まれ)はこの時期は小学生で、原っぱでカマキリを捕まえるのにすべてを捧げていた時期なので、ブーツ形ジョッキとかニューアレンジステップリーゼントとか言われてもピンとこないが、特定の世代には堪らないのだろう。というより、堤幸彦にとって堪らないのだろう。そこを突かれたら一番痛い、枷みたいなものなんだろうな。

 

(80年代の痛々しさを今でも象徴し続けている木梨憲武や片岡鶴太郎が、ポイントで配役されているシーンは、ボクでも少し「うわー」って思ったが。なるほど、80年代の痛々しさってこういうことか)

 

基本的には驚くほど原作に忠実だが、ラストだけ大きく変更を加えている。小説では主人公は(読者と違って)何も気づかずに終わるのだが、映画ではキーパーソンが一堂に会すシーンが付け加えられている。その瞬間、森川由加里『SHOW ME』が流れ出し、懇切丁寧な種明かしが始まる。いつもなら「観客のレベルを低く見すぎ! 馬鹿にするな!」と怒るところだが、この丁寧な種明かしにある種の高揚感があるのは確かだ。まあ、主に『SHOW ME』のおかげなんだけど。この曲のイントロから感じる、「物語が動き出したー!」みたいな圧倒的なパワーってなんだろうな。すごいな。

 

そして再び同じシーンに戻り、すべてを悟っただろう主人公に向かって前田敦子が「えへっ」って笑って、映画は終わる。主人公の苦悩も喜びも、そして80年代の痛々しさも、すべては前田敦子の「えへっ」ひとつで粉々になる程度の茶番だったわけだ。

 

監督が手を加えたところこそが、作家性がもっとも大きく現れるところである。堤幸彦は、本作を撮ることで自らの中に燻り続けてきた80年代の痛々しさに真正面から向き合い、前田敦子の「えへっ」によって解放された。この前田敦子の「えへっ」こそが、堤幸彦にとってのイニシエーションだ。