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【邦画】『STAND BY ME ドラえもん』--無意識にばらまかれる恐ろしいメッセージ

本作を批判するのは簡単である。世代を超えて愛されている国民的漫画という原作にあぐらをかいて、新たな物語を作る努力を一切していないからである。評判のいいエピソードを適当に見繕って並べただけであり、ひとつのストーリーとしてつなげるための再構成を全くしていない。そのため、各エピソード間の齟齬はいくらでもあり、批判したければそのへんを指摘すればいいだけだ。例えば、冒頭では嫌々のび太の元に置いていかれるドラえもんが、目的を達成したためにいざ帰らなくてはいけないとなると、のび太との別れを惜しんでひとり泣き出す。名シーンになるはずだが、ドラえもんの涙の根拠となる「のび太との友情を感じるシーン」は、ひとつもない。全体を通してこんな感じで、各エピソードが全く繋がっていない。だが、話が破綻しているだけなら、じっと耐えれば済む。この映画の本当に恐ろしいところは、手抜きゆえに無意識に発生してしまった世にも恐ろしいメッセージを振りまいてしまっていることである。

 

ドラえもんが帰る前日、のび太ジャイアンにいくら殴られても立ち上がり、自分はドラえもんがいなくても大丈夫だと示す。そこだけ抜き取ればのび太の成長を示す名シーンのようだが、各エピソードによってジャイアンの立ち位置が違うため、そもそも「成長するために乗り換えるべき障害」になっていない。あるエピソードではのび太たちと一緒に遊んでいるし、別のエピソードではコメディリリーフを担っている。さらに、ジャイアンに立ち向かうことで「成長」を示したあとの、すぐ次のエピソードで、のび太は今までと同じようにジャイアンにやられ、結局はドラえもんの残した道具を使って復讐している。成長してないじゃん。ドラえもんがいなきゃ何にもできないじゃん。

 

冒頭に戻るが、ドラえもんのび太のもとに送られたのは、就職に失敗して起業するも火事になって借金を背負うというのび太の不幸な未来を変えるためである。そして、ドラえもんには「のび太の結婚相手をしずかちゃんにする」という使命を与えられている。のび太が不幸になった理由と結婚相手は関係ないだろという当然のツッコミはもとより、美人と結婚さえすれば幸福になるという設定は、面倒な団体とか刺激しそうだ。

 

ドラえもんの道具を使ってしずかちゃんと親密になろうと企むのび太だが、結局は道具なんかに頼ったためにしずかちゃんは別の男(出木杉くん)と親密になってしまうというオチがつく。その次のエピソードで、しずかちゃんと自分は離れたほうがいいんだと思い悩んだのび太は、周囲の人を不愉快にする薬を飲む。ドラえもんや母親を始め、のび太の周囲の人々は逃げ出す。しかし、のび太が自殺すると勘違いしたしずかちゃんは、トイレで薬を吐かせて、のび太を助ける。これ、どう考えても、しずかちゃんが見た目だけでなく性格も素晴らしい聖女であることを示すエピソードであり、のび太のダメっぷりはさらに強調されている。しずかちゃんがのび太に好意を抱くエピソードが無いのだ。
(未来での、雪山遭難のエピソードはあるが、あの段階ではのび太がしずかちゃんにプロポーズして、その返事待ちという状況である。普通に考えて既に付き合ってる状態であり、このずっと前にしずかちゃんがのび太に好意を抱くきっかけが、本来なくてはいけない)

 

結婚式前夜のしずかちゃんと父親との有名な会話。父親がのび太を評して「人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人間だ」って言うヤツ。しずかちゃんの父親が登場するのは、このシーンと「しずかちゃんに嫌われなくちゃ」と追い詰められたのび太に出会っているときの2回だけだ。しずかちゃんの父親は、ダメなのび太を見ることで「この男は娘の婿にふさわしい」と感じたということである。作劇上、そうでなければつじつまが合わない。そして、これが「のび太としずかちゃんが結婚する」唯一の根拠でもある。

 

この映画の中でのび太が成長しないのは、何度も言うように各エピソードを並べただけのために、話が切り替わるごとに全てがリセットされて元に戻されているからである。つまり、ただの創り手の手抜きなのだが、そのことによって、「成長しない」からこそ、「容姿も性格も完璧な美女と結婚」できて、その一点のみで「幸福になれる」という強烈なメッセージを無意識にばらまいてしまっている。害悪だろう。

 

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